2012-02-28

construction and destruction of a mandala

         Uploaded by on Jul 13, 2009
construction and destruction of a sand Mandala by the Dalai Lama, from Werner Herzog documentary "Wheel of Time"



Uploaded by  on Oct 6, 2010
A four-day exploration of Tibetan culture showcasing the sacred art of Tibet concluded Friday, Sept. 24, with the completion, consecration, and destruction of the sacred sand mandala created by visiting Tibetan Buddhist monk, Venerable Ngawang Chojor. An audience of students, faculty, and members of the U-Mary and surrounding community watched intently as the exiled Tibetan monk placed the final grains of colored sand in the intricate mandala of compassion begun on Tuesday, while Karma Tensum, director of the Tibetan Children's Education Foundation, explained the process and provided cultural and historical insights.
After consecrating the mandala and speaking briefly through a translator, Venerable Chojor offered a prayer. He then began the destruction of the creation according to centuries-old tradition, symbolizing the impermanent nature of existence.
The educational visit to the University of Mary focused on the University of Mary core concept of spirituality and ethics, with emphasis on the ability to assess the value and role of spirituality and religion in human societies and describe the relationship between the Benedictine values and the values of other religious traditions. In addition, the visit explored the core concept of global stewardship with emphasis on developing a greater ability to analyze the impact of contemporary, historical and cultural perspectives, with Tensum presenting "The Challenges of Tibetan Culture Survival" as part of the university's fall convocation series. The visit was funded in part by the North Dakota Humanities Council.

Mandala is a Sanskrit word meaning "circle." A mandala is a sacred art and mandalas constructed from sand are unique to Tibetan Buddhism and are believed to effect purification and healing. Typically, a great teaching chooses the specific design of the mandala to be created. Monks then begin construction of the sand mandala by consecrating the site with sacred chants and music. Next, they make detailed drawing from memory. Over a number of days, they will fill in the design with millions of grains of colored sand. At its completion, the mandala is consecrated. Buddhism stresses the impermanent nature of existence, so once the mandala is completed, the monks will destroy the mandala by sweeping up the colored grains of sand and dispersing them.

A very special thanks to musician Ani Tsering Wangmo for lending her single entitled "Tara Mantra" from her CD Alokhe.



「色即是空」「空即是色」の意味

「心の癖」が人の運命を決めている

前回ご紹介した『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ著/講談社)から、もう少し「カルマ」に関する記述を拾ってみたいと思います。


  私たちの心には「通常の心の基盤」と呼ばれるものがある。そのことを14世紀の傑出したチベットの師ロンチェンパは次のように語っている。
「それはいまだ悟りにいたっていない、どっちつかずの状態である。心と精神作用の範疇に属し、すべてのカルマの因(もと)となるものであり、輪廻と涅槃(ねはん)の道となるものである」。
それは倉庫のようなものだ。煩悩によって引き起こされた過去の行為による心理的刷り込みのすべてが、種のように貯えられているのである。条件が整ったとき、それらは芽を吹き、人生を取り巻く環境と境遇として現れる。
この「通常の心の基盤」は銀行のようなものだと思えばいい。そこにはカルマが心理的刷り込みと習癖という形で貯えられている。肯定的であれ否定的であれ、ある特定の思考パターンをとる癖があると、その癖はいとも簡単に刺激され誘発されて、いつまでも何度も繰り返される。この頻繁な繰り返しによって、わたしたちが眠ってるあいだにも、癖と習慣は着実にその根を深め、力を強め、強大化してゆく。このようにして、わたしたちの生は、死は、再生は、決定されてゆくのである。
「死ぬときのわたしはどんなだろう」と人は考える。答えはこうだ。今のあなたのこころの状態がどんなものであれ、今のあなたがどんな人間であれ、あなたが変わらないかぎり、それが死のときのあなたなのだ。この人生を活かすことが絶対的に重要だというのはそのためだ。心の流れを浄めるために、基本的なあり方と人格を純化するために、あなたに許された時間を、この人生を、活かすことが絶対的に重要なのだ。
―― 『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ著/講談社)

ここでは、「心の癖」のことを「思考パターン」と表現しています。
「通常の心の基盤は銀行のようなもの」と表現してありますが、「通常の心」は私たちが自分で意識できる「顕在意識」のこと、その“基盤”となっているのが「潜在意識」です。つまり、私たちが普段使っている心のうち、習慣化されて特定のパターンを持ったものが「岩に書いた文字」のように潜在意識に刻まれることを言っています。そして、その潜在意識の内容が、「通常の心(顕在意識)」を左右するということです。たとえば「怒りっぽい」思考パターンを潜在意識に刻印してしまうと、怒りっぽい性格が身についてしまい(心理的刷り込み)、それが「この人生を取り巻く環境と境遇として現れる」と述べられています。
このようにして私たちが身につけた「心の癖」がカルマとなって、人生の出来事を創り上げていくということです。「眠っているあいだにも、癖と習慣は着実にその根を深め、力を強め、強大化していく」というのは、私が『2012年の黙示録』で述べているとおりです。
少し長くなりますが、その部分を以下に引用しますので、「心の癖」の特徴を理解するうえでの参考にしていただきたいと思います。


水に書いた文字、砂に書いた文字、岩に書いた文字
‥‥(中略)‥‥
夜眠りにつくと、潜在意識の扉が開くと言われています。そのとき、私たちが心に残していた恨みの気持ちや不安な気持ちなどが、まとめて潜在意識の中に畳み込まれるのです。しかも、潜在意識の中に入った心の傾向は、睡眠中にどんどん成長していくと言われています。それはちょうど車のハンドルに例えられていて、私たちが寝る前に切ったハンドルの状態は、睡眠後もそのまま固定され、車はその方向に進んで行くのです。
恨みや不安、怒りなどの気持ちを抱いたまま眠りにつくと、その気持ちはますます強化され、目が覚めたときにはさらに強い恨み、不安、怒りなどの気持ちとして意識されることになります。そして、「類は友を呼ぶ」の法則の通り、現実の世界でもさらにそのような気持ちにさせる出来事を引き寄せてくることになり、それはまた潜在意識にため込まれ、成長していくという悪循環に陥ることになります。
このように、眠りにつくときにまだ気持ちの整理がつかないものを残しておきますと、その気持ちは潜在意識にしっかり刻まれることになります。ここまでくると消すことのできないカルマとなり、病気や事故といった現象として形を現してきます。これを、岩に書いた文字と表現しているのです。
夜寝るときに、その日の出来事を振り返り、人を恨む気持ちがあればその人を許し、また恨みの気持ちを抱いたことを反省し、わびることです。また、このような気づきを与えてもらったことを感謝し、「ありがとうございました」とお礼が言えれば悟りの境地と言えるでしょう。もちろん、最初は「ありがとうございました」を何十回も唱えてから寝るというふうに、形から入ってもらえばいいのです。
同じように、不安な気持ちが心を占領しているときは、「大丈夫」「きっとうまくいく」「もう解決した」といった言葉を何度も口ずさんだあとで眠りについていただくことをお勧めします。これは宗教が教えている内容ではありません。潜在意識がどのような働きをするかという科学的理解に基づいた処方箋なのです。私はこれを「大丈夫教」と呼んでいますが、心を鎮めるご利益に関しては一般の宗教に劣らないものがあります。
―― 『2012年の黙示録』(たま出版)


自分がどのような「心の癖」を持っているかは、自分ではなかなかわからないものです。行動面に現れるものでも、「なくて七癖あって四十八癖」と言われるように、人それぞれにたくさんの癖を持っており、しかも自分も気づいていない癖が7つもあると言われているのです。まして、他人の目にも映らず、自分でも気づいてない心の癖は、非常にたくさんあるとみるべきでしょう。
「心の癖」は、基本的には「他者に対してどのような態度をとるか」ということにその特徴が表れます。態度とは「身・口・意」のことです。まず心の中で自分の周辺の人のことをどう思っているか――。感謝の対象よりも嫉妬や軽蔑、批判、不満などの対象としている人(や会社などの組織)が多いようであれば、好ましくない心の癖を身につけていることになります。
当然、そういう人たちを話題にするときは、不満や批判の言葉が口をついて出てくることでしょう。さらにはそういう人たちに対する日頃の接し方(=行為)まで、冷たくよそよそしい感じになっているかも知れません。まさに「身・口・意」の三拍子が揃っているということで、これは一刻も早く修正しなくてはならないカルマだということができます。
私は「心の癖」のことを「岩に書いた文字」に譬えました。つまり、「潜在意識に刻印してしまった波動の傾向」ということです。それは必ずしも悪い癖ばかりとは限りません。美しいものを美しいと感じるのも、ある意味では心の持つ癖であり感受能力ということができます。また、たとえばテレビのニュース番組でアジアやアフリカの人たちが貧困や飢餓によって苦しんでいる姿を見て、心を痛め、幸せになることを願う気持ちも、私たちが育てなければならない「心の癖」ということができます。「人の痛みを自分の痛みと感じることのできる優しさ」ということで、それは仏教では「慈悲」とよび、キリスト教で「愛」と呼んでいるものです。
慈悲深い人になることは「身魂を磨く」ことなのです。しかし、それは頭で理解しても、心が動かなければ身につくことはありません。やはり実生活の中で「身・口・意」がそろわなければ潜在意識に強く刻まれることはないのです。自らが飢餓や貧困を体験することによって、初めて他者の苦しみや悲しみが心で理解できる人もいるでしょう。死んで霊界に行けば、「人生のパノラマ的回顧」によってそのようなことは理解できるはずなのに、それでもなおこの三次元の物質世界に生まれ変わってくるのは、この世での実体験こそが私たちの魂を磨く最善の方法だからなのです。体験することが必要なのです。
もちろん、体験すれば必ずよい心の癖が身につくということではありません。なぜなら、たぶん私たちはこれまでの生まれ変わりのなかで、さまざまな境遇の人生を体験してきているはずだからです。何回体験しても、同じ心の癖を手放せない人(魂)も多いということです。でも、この終末の大峠までには、もうその体験を活かさなくてはならなくなっているということでしょう。
カルマと生まれ変わりの関係に関しては当サイトにアップしている『死後の世界からの声』(メアリー・T・ブラウン著/同朋社出版)にもかなり詳しく述べてありますので、ぜひ一度ご覧ください。
                         ☆ ★ ☆
さて、『チベットの生と死の書』も、カルマについての考え方は『魂との対話』と一致していることがおわかりいただけたことと思います。『大本神諭』や『日月神示』などの大本系の神諭で使われている「めぐり」や、天理教の「かやし」、あるいは仏教で言う「因果応報の理」などもまったく同じ意味に使われています。
ついでにあげますと、『新約聖書』では「蒔いた種は刈り取らなければならない」と表現されていましたし、桑原啓善さんは『サタンが降りた』の中で「白いボールを投げれば白いボールが、黒いボールを投げれば黒いボールが返ってくる」という譬えでカルマの性質を説明していました。
この人生で私たちが蒔く種、あるいは投げるボールとは、すなわち「身・口・意」のことなのです。何気ない日頃の行動(身)、習慣的に使っている言葉(口)、自分の身の回りで起こることの受け止め方(意)が、私たちのカルマを形成しているのです。善くない癖を身につけていると感じられる場合は、一刻も早く修正しておきたいものです。それが『大本神諭』や『日月神示』に繰り返し出てくる「身魂磨き」ということなのです。

それではここで、これまでいろいろな本の内容を引用しながらご紹介してきた「カルマ」の特徴を、私なりの表現で整理してみたいと思います。

1.私たちが「身(行為)・口(言葉)・意(想念)」によって表現したものは、「カルマ」と
なって異次元に蓄積される。


カルマの原因(もと)となるのは私たちの「身・口・意」であるということをまず心に留めておいてください。私は「カルマは人の潜在意識のなかに刻印されている心の癖」だと述べてきました。心も波動ですから、特定の波長を持っているわけです。怒りっぽい人は「怒りの波動」、すぐに弱気になる人は「弱気の波動」といった感じです。
こうした「怒り」や「弱気」などの心の持ち方を繰り返していると、それが潜在意識に蓄積され、「岩に書いた文字」のように消えなくなるということです。この「岩に文字を書く」場合に使う道具が「身・口・意」であるというわけです。
ここで「意」というのは、「想念」「思念」「気持ち」などを表しています。つまり、私たちが冷静に振り返れば確認できる心の動きのことで、あえて呼ぶなら「顕在意識」というものです。怒りに震えている場合でも、ちょっと時間をおいて冷静になれば「いま自分はなぜ怒っているのか」ということがわかるはずです。自分の心が見えるのです。
このように自分で見える心(顕在意識)のことを、「意」と表現しているわけです。この「意」のことを『魂との対話』のゲーリー・ズーカフは「意図」と呼んでいましたし、『チベットの生と死の書』のソギャル・リンポチェは「動機」と表現していました。私たちの言葉や行為の裏には必ず「意図」または「動機」と呼ぶべき心の働きが隠されているのです。たとえばわが子を叱る場合でも、「子供を立派な人間に育成しよう」という意図を持って叱る「愛の鞭」の場合と、単に「親の言うことを聞かないから腹が立つ」という怒りにまかせた叱り方では、まったくカルマの内容が違ってくるのです。
「意」についてはそのような深い理解が必要ですが、とりあえずここでは「身・口・意が私たちのカルマの原因(もと)になっている」ことを確認しておきたいと思います。

2.異次元に蓄積された「カルマ」は、やがて形(現象)となってこの三次元の物質世
界に返ってくる。返ってくるのは、この世で表現した「身・口・意」の内容
(波動)
まったく同じものである。


心は波動ですから、「波動の作用反作用の法則」によって、「人を憎めば、自分も憎まれる」という形で返ってきます。「人を呪わば穴二つ」という諺がそれを表現しています。また、そうではなくて「ますます憎むべき対象が現れる」という形で現れる場合もあります。「笑う門には福きたる」や「泣き面に蜂」などの諺に見られる現象です。これは「波動の共鳴の法則」というべき内容です。これもカルマが実を結ぶひとつのスタイルということができます。

3.「身・口・意」によって繰り返し表現しているものは異次元では大きなカルマの塊
となっているので、それがこの世界に返ってくるときはスケールも大きなものに
なる。


たとえば「私はだめな人間だ」という言葉を毎日つぶやいていれば、そのひとつのつぶやきの波動は弱いものですが、それが積もり積もれば、大変大きなエネルギーとなっていきます。
つまり、「岩に書いた文字」のように大きな「心の癖」となって、異次元でも大きなカルマの塊を作り上げ、それがこの世に返ってくるときは、大変不幸な現象を引き起こすことになるのです。文字通り、「もうだめだ」と音を上げるような悲しい出来事としてカルマが結実することになります。
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さて、カルマについての分析と解説といえば、何と言ってもその本家は仏教と言うべきでしょう。その本家の仏教の教典には、カルマに関してさまざまな説明がなされています。しかしながら、主として漢文で書かれた膨大な仏教の教典に一から目を通すことは無理な話です。そこで、仏教の経典の内容をコンパクトにまとめた『仏教聖典』(仏教伝道教会)という本をご紹介します。
この本は、最近では著名なホテルに英文併記の本が置かれるようになっていますが、仏教のエキスが大変わかりやすく編集されています。そのダイジェストをBookstandにアップしましたので、「カルマ」の性質を念頭において読んでいただくと、仏教を新しい視点で見ることができると思います。
仏教は常に宗教と見られ、わが国では「葬式仏教」と揶揄されることもありますが、本来は文字どおり「仏の教え」つまり、「お釈迦様の教え」ということで、特定の宗教団体の持ち物ではありませんし、葬式のときだけに威力を発揮する教典ではないのです。宗教や宗派を離れて編集された『仏教聖典』は、仏教の入門書としてお勧めしたい本です。
カルマに関しての結論とも言える内容が『仏教聖典』にわかりやすく述べられています。その中でも特に注目していただきたいのは以下の部分です。

 迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。

人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。
心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。
――『仏教聖典』(仏教伝道教会)


私たちのカルマの内容に影響を与え、この人生における運命を左右する力を持っているのは私たち自身の「心」だということです。そのことが仏教の教典の中には詳しく述べられているのです。
そのような素晴らしい真理が述べられているにもかかわらず、仏教は葬式や法事のときにしか出番がありません。仏の教えが綴られているお経は、亡くなった人を慰霊するために唱えるものといったとらえ方をされているからです。
最近では般若心経などの解説本がブームになっていますが、それとて「唱えることによってご利益のあるお経」としての価値が重宝されているようにも見えます。確かに、お経は唱えるものではありますが、やはり大切なのはその内容を理解することのはずです。
この般若心経につきましては、私も長年にわたって毎日読誦を続けてまいりました。特段ご利益を期待したわけではありませんが、読誦を続けているうちに、いろいろな解説本を読んでもよくわからなかったその意味が、ある時から忽然と理解できるようになったのです。まるで新しい宇宙観を授かったような気がいたしました。いまでも般若心経に凝縮された仏教の奥深さに驚かされています。
般若心経についての私の解釈については、その核心となる部分を『2012年の黙示録』に載せています。ご参考までに以下に引用しておきます。

仏教は最先端科学の内容をすでに知っていた
宇宙は波動で構成されていて、異なる振動数(周波数)の世界が何層にも重なり合って存在しているということでした。そのことは今日の最先端科学が明らかにしていますので、ここで素人の私が解説するまでもありません。
驚くべきことに、それと全く同じ意味のことが、仏教のエッセンスといわれる般若心経にしっかり述べられているのです。私は仏教に関しては解説書をかじった程度の知識しかありませんが、般若心経の解釈については、「これしかない」という確信を持つに至りました。
般若心経のなかで最も有名なのは「色即是空、空即是色」という言葉です。この「色」は物質や現象のことを意味しています。しかし、たとえば「物質は空である。空が物質である」と解釈しても、何のことか理解できないと思います。仏教の世界にいる人たちの解説は、ここでつまずいてしまうのです。「空」を「無」に近いものと解釈しているからです。「物質はあるようにみえるけど、時間が経つとなくなる不安定なものだ。だから執着してはいけない」といわれれば、何となくわかったようで、それでも釈然としない気持ちが残ります。
現代物理学は、この「空」の存在を立派に証明してくれました。ひところ、この空間には「エーテル状」のものが充満している、との考え方があったのをアインシュタインが否定したといわれています。いま、その考え方が再び復活し、「量子真空」という言葉で再定義されています。(『魂の記憶』喰代栄一・著/日本教文社)
この空間は目に見えない粒子、波動で満ち満ちているということです。その波動に一定の力が加わることによってエネルギーが発生し、「無」と思われたところにさまざまな「物質」が生み出されるというわけです。(『空間からの物質化』ジョン・デビッドソン・著/たま出版)
そこで、「色即是空、空即是色」を「色即是波動、波動即是色」というふうに置き換えて解釈してみてください。つまり、「物質は波動でできている。また、波動に一定の力が加わると物質に変化するんだよ」ということです。これが仏教の真髄なのです。2500年前に、お釈迦様はこの最先端科学の発見を完璧に理解しておられたということです。すごいと思いませんか。
般若心経はこの「空即是色」の後に「受想行識亦復如是」という言葉が続きます。「受想行識」はセットになった言葉で、物質的現象を意味するする「色」に対して「精神的作用」を総称したものです。「受」は感覚、「想」は想念、「行」は意志、「識」は認識、と理解したらよいと思います。「亦復如是」は、「~もまた同じものだよ」と言う意味です。つまり、私たちの感覚も想念も意志も認識も、みんな波動だといっているのです。これも最先端の現代科学がいっていることとまったく同じです。
この理解を得ると、難解な仏教もフツーの人の頭で解釈できるようになります。
私たちは死ぬと、魂が物質としての肉体から離れ、波動の違う別次元に行くのです(正確には、魂はもともと別次元にも同時に存在しているのですが、そのことがこの物質次元からでは認識されないだけのことです)。ですから、魂は死滅することはありません。別次元のことは「幽界」とか「霊界」とか呼ばれていますが、その世界も波長の違いにより更に細かな階層に分かれているようです。
――『2012年の黙示録』120ページ~

般若心経の理解のキーポイントとなるのは「空」の解釈に尽きると言っても過言ではありません。多くの解説本にありますように「空」を「無」と解釈すると全く理解できなくなります。逆に、「空」の意味がわかれば、全体の意味もすらすらと理解できるようになります。
般若心経は、「色」すなわち「物質」や「出来事」はすべて「波動」であり、「受想行識」という心の働きも同じ「波動」であると述べているのです。
ここでもう一度さきほどの『仏教聖典』の内容を読み返してみてください。

 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。
これはまさに「空即是色」のことを述べています。「心の力が波動(空)に作用することによって、この世界に物質や現象(色)がつくり出される」という意味なのです。心がどのような波長を持っているかによって、現れる物質や出来事も左右されるということを表現しています。つまり、心の持ち方によって人の運命が変わるということなのです。
波動には共鳴する性質がありますから、心の働きは、異次元では同じ波長のものが集まり、この世界に返ってくる場合も、同じ波長のところに返ってくることになります。たとえば、「恐れる」という気持ちを持つと、「恐怖心」の波動を発信することになりますから、それは異次元の「恐怖心」の波長と同調し、この世界に返ってくる場合は「恐怖心」の波動を発信した人のところに「恐怖させるような出来事」として現象化するのです。
また、他の人や生き物に恐怖心を与えるような行為をした場合にも、その報いを受ける(作用・反作用の法則)という形で「恐怖させるような出来事」が自分に降りかかることになります。しかも、自分が直接恐怖させたのでなく間接的にかかわった場合も、そのカルマを分担させられることになるのです。
たとえば、当サイトを通じて私が「やめるべきだ」とたびたびお節介をしている「肉食」を例にとりますと、牛や豚、鶏などの屠殺に従事している人だけでなく、それを食べることによって間接的にその屠殺の原因をつくっている人にも「カルマのお裾分け」は行くということです。それらの動物が屠殺されるときに大変な恐怖心を抱くわけですから、肉を食べる人にそのことの自覚があるかどうかは別にして、「他者に与えたものが自分に返ってくる」というカルマの法則は寸分の狂いもなく、それに荷担した人に返ってくるのです。すなわち、「恐怖心を与えれば恐怖心として返ってくる」ということです。
そのことに気づき、懺悔することによってカルマは発散されます。「気づき」「反省」「懺悔」「感謝」「祈り」などの心の働きが、カルマの発散にはもっとも有効であると言われています。そのような心の働きによって、カルマが中和され、大難を小難にすることができるのです。そういう意味では、「カルマの法則は人に気づきを促すためにある」と言うこともできます。もちろん、「感謝をして食べればいくら動物を殺してもよい」と考える人は、まったく気づきを得ていないことになりますが‥‥。
                         ☆ ★ ☆
信頼できる霊界通信によれば、霊界では思ったことがすぐに実現すると言われています。誰かに会いたいと思えば、すぐにその人が目の前に現れ、何かが食べたいと思えば、その食べ物がすぐに目の前に姿を現す――といった現象です。
本日の冒頭のところの『仏教聖典』で、「心がすべてを生み出す」とありましたが、まさに心はすべてのものを創造するのです。しかしながら、この物質世界においては、心のエネルギーはいったん異次元にプールされ、それが次元の壁を越えてこの世界に現れるまでには、一定のタイムラグがあるため、その因果関係がわからなかったのです。
問題なのは、私たちは自分の心の動きについて、ほとんど自覚がないということです。言うなれば「心」という「カルマ製造機」の性能を知らないため、適当に操作して、その機械がつくり出したカルマ(病気や事故、経済的破綻、人間関係のもつれなどの不幸な出来事)を、自覚のないままに体験させられているということです。
そのようにして、これまでに(過去世も含め)この「カルマ製造機」を使ってつくり出したたくさんのカルマが、これから終末の大峠までにすべて我が身に降りかかるということになっているのです。

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